公開日 2026年09月30日
更新日 2026年09月30日
ハッシュドビーフとカレーの店「下連雀テラス」 オーナー並木さんが語る、人生観と地域への恩返し
三鷹のまちに誕生した穏やかな交流の場であるレストラン「下連雀テラス」。
店主の並木敏夫さんはホンダで技術職としてバイクの設計などに40年間携わった後、退職。シェアキッチンでの3カ月のお試し営業を経て、自宅を改装したレストランを2024年にオープンしました。
今回もインタビュアーは、むさしの地域若者サポートステーション(サポステ)
の若者。開店の経緯から独自の人生観、そして地域への熱い想いまでをじっくりとお聞きしました。

並木敏夫さんへインタビュー
どのような経緯で「下連雀テラス」が誕生したのでしょう
レストランをはじめようとしたきっかけは何ですか?
料理をするようになったきっかけは小学校2年生のころの体験です。家族が寝込んでしまって、リンゴをむいて枕元に置いたら、ものすごく喜んでくれた。 それが今でも料理をするモチベーションになっています。
料理は好きで、ずっと家族の食事や娘のお弁当などを作っていたのですが、母が亡くなる前の最後の検査の時に「早く戻ってあなたの料理を食べたい」と言われたんです。 それが決定的でした。
「自分にできることで他人に喜んでもらえるのは料理しかない、一生料理をしていこう」と本気で決意しました。
お店を開くにあたりどのような準備をしましたか?
お店のイメージはずっと持っていたんです。退職する10年ほど前から、コツコツと使いやすい有田焼の食器などを集めていました。
具体的なところは、「野の」のシェアキッチンでのお試し営業かな。 3カ月ほどだったのですが、その時に実際の動線や設備の問題がいろいろ見えてきたんですよ。
例えば、テーブル席だとキッチンから料理を運ぶのがすごく手間で・・・ だから「全部カウンターにしよう」と決めたり。片付けと準備の同時進行になるから大型の食洗器を入れて、仕込みの保存には冷蔵ショーケースも必要だな、と分かったんです。

料理や経営において大切にしていることについて教えてください。
お店をどのような場にしたいですか?
一番大切にしているのは、美味しいものを食べると「もうちょっと頑張ろう」と思えること。
人それぞれ事情はありますが、何も言わず受け止めてくれて料理を出してくれる…そんな場があれば、人は「ほっ」と安心してまた頑張れると思うんです。
また、ただ食事をするだけでなく、地域の人たちが集まり、コンサートや映画の上映会を開けるような「コミュニケーションの場(サードプレイス)」にしたいな、と。実際にお客さんの6〜7割が近所の方で、お店での出会いから会話が盛り上がっています。
料理を提供するにあたり気を付けていることはありますか?
バイクを量産する時って、どうしても1,000台に1台、10,000台に1台の不良が出ることがあるんです。作り手から見たら“多くの中の1台”だとしても、受け取ったお客さんからすると“それが全て”ですよね。
それは料理においても同じ。だから絶対に手を抜いちゃいけない。
お客さんの顔を思い浮かべながら「美味しくな~れ」と愛情をこめて仕込んでいますよ。

今までとは全く違うことにチャレンジすることになった並木さん、支えになった考えについてお聞きします。
新しい目標に向かうこと、夢を叶えるという事について、並木さんはどのような捉え方をされていますか?
うん。よく皆さん「夢」って言うんですけど、私はあまりそういう感覚はないんです。 「夢」って言ってしまうと、なんか叶わないものみたいじゃないですか。 だから、「こういうことをやりたい」と思ったら、それを「課題」として設定して、細かいところまで完成形を想像して、今とのギャップを一つずつクリアしていく作業(視覚化)に入る、という感じなんです。
オートバイの設計をずっとやっていたので、そういう癖がついているんだと思います。
チャレンジするうえで「失敗すること」についてどう思いますか?
私、多分この40年間で、他の人より3倍は失敗してきました。失敗して初めてその前後の仕組みやリカバリーの方法を深く理解できるじゃないですか。だから、失敗するって素晴らしいことですよ!
あとは、子どものころ、親から「勉強しろ」と言われたことがないんです。すべてを自分で決めて来た。誰かに指示されたことではないからこそ、失敗しても他人のせいにせず、すべてを自分の責任として受け入れる強さが身についたと思います。

サラリーマン(ホンダでのバイク設計)時代について
サラリーマン時代の経験は、今にどう生きていますか?
よく「第2の人生」って言われるんですけど、私にとっては“今”こそが「第1の人生」です。学生時代は理系で、就職したホンダで40年間、大好きなバイクの設計をして、リタイア前には社内起業(マニア向けバイクのパーツ復刻とレストアプロジェクト)もしました。それらの経験が今に活かされていると考えると、サラリーマン時代はすべて「今」のための準備期間だったと感じています。
サラリーマン時代に培ったことで活かされていることは何ですか?
もともと技術屋なんでコミュニケーション能力は高くないんです。でも開発リーダーを担うと、エンジン設計の人、車体設計の人、多様な技術者を束ねる必要が出てくる。そうなると「その人の能力をどう引き出すか」「どうしたらモチベーションを上げられるか」を考えるようになる。結果としてコミュニケーションが苦手ではなくなった気がします。
また社内起業で投資や減価償却などの個人事業主に近い経験を積んだことが、お店を経営するベースになったと思っています。

並木さんはオーストラリアの砂漠でバイク旅行をされたことがあるそうですが・・・
そもそも「砂漠」という過酷な環境を選んだ理由は何ですか?
37年前、31歳の時です。 それまでも国内をバイクでキャンプしたりツーリングしたりしていたんですが、「日本とは全然違う、誰も走っていない場所を走りたいな」と思って、ラリーが盛んなオーストラリアの砂漠を選んだんです。バイクを借りて1週間ほどキャンプをしながらひとりで砂漠を走りましたが、想像以上に大変で、まさに“冒険”でした。
いや、今思うとただの“無謀”でしたね。
過酷な環境を経験して一番大きく感じたことは何ですか?
砂漠を走っていると1日の中ですれ違う車が1台あるかないかなんです。
もし転んで骨を折って動けなくなったら?48時間誰にも会わないかもしれない。 その間に死んでしまうかもしれない・・・日本の守られた環境との違いを痛感するとともに、自分の身は自分で守るしかないという経験をしました。
また、旅の途中で出会った、砂漠の過酷な環境でたくましく生きる人たちの姿を見て、それまでの自分自身の小ささに気づき、人生観が180度変わりました。
過酷な環境だからこそできた特別な経験はありますか?
砂漠を走って3日目には、道具がなくても方角や時間が正確に分かるようになりました。それから嗅覚ですね!5キロくらい手前から「村の匂い」「生活の匂い」を察知できるようになるんです。極限状態になると人間本来の生命力が目覚めるんですよ。

地元である三鷹に対する思いをお聞かせください。
サラリーマン時代は地元に全く目が行かなかったんですよ。でも地方や海外での生活を経て戻ってきた今、生まれ育った三鷹への恩返しをしたいな、と思っているんです。
三鷹ってまちづくりのために関われる場や地域で活動している人がすごく多いんですよ。私の場合は直接的に何かをするというより、そんな人たちに「美味しい食事と安心できる場」を提供することで、人と人との繋がりを広げていく役割を担えればと思っています。

若者に向けてのメッセージをお願いします。
この近く(仙川平和公園)に、北村西望という彫刻家が作った平和祈念像があります。長崎出身で病弱だった彼は兵隊としても「使い物にならない」と言われ、美術の道に進みました。やがて大きな賞を受けて世に知られるようになると、それから102歳で亡くなるまでずっと作品を作り続けたんです。
そう、始めるのに「遅すぎる」なんてことは何もないですよ。準備もいつでもできる。
人から「こうしなさい」って言われて行動した場合、それができなくなった時にどうしたら良いか分からなくなってしまいすよね。
「失敗が怖いからできない」というのは、長年やっていると分かるんだけど、失敗ってね・・・ “成功するまで続けなかったこと”なんですよ。
途中で諦めなければ、絶対に成功する。 そう思っています。

あとがき
並木さんの三鷹に対する熱い思いが伝わるインタビューでした。
「失敗とは成功するまで続けなかったこと」「途中で諦めなければ絶対に成功する」という言葉が心に残っています。失敗は恐れるものではなく、人生の糧になるものだ、というエールをいただいたようで勇気づけられました。
コンサートでお店にお邪魔したことがあり、並木さんの経歴・考え方に興味を持っていたのでお話を聴けて本当に良かったです。
また、並木さんは一瞬一瞬を大切にして生きている感じがする方でした。お客さんの顔を思い浮かべながら、心を込めて丁寧に作られているお料理をいただけば、自然と笑顔になれそうです。
取材協力
インタビュアー
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国武奈央子 岡部正利
若者の就労をサポートする「むさしの地域若者サポートステーション(通称サポステ)」で将来を模索中のふたり。サポステを受託運営するNPO法人文化学習協同ネットワーク(三鷹市)の若者の居場所Linkにて、仲間づくり、地域づくりを意識しつつ活動中。
